Sleazy Horse・・・誕生まで、そして
見果てぬ夢・・・。
誰しもが一つや二つは持っているだろうこの実現困難な願望に駆られたのは
ニール・ヤングの三度目の来日公演が決まった年の夏だった・・・。
思えば70年代は青春真っ只中。
16才でギターを弾き始め、C、G、F、のスリーコードが
何とか押さえれるようになったとき、
クラスメートからバンドへの参加を誘われた。
生まれて初めてのレパートリーは「ヘルプレス」だった。
その年、人生で最高のレコード二枚を手にする。
CSN&Yの『4 WAY STREET』と、
ニール・ヤングの『AFTER THE GOLDRUSH』。
文字通り、溝が磨り減るまで聞き込んだ。
「サザン・マン」のアドリブパートはほぼ完璧にコピーした。
以後のバンド活動の中で、
その曲は欠かすことの出来ないナンバーとなった。
いくつかのバンドを結成したり、参加したりした。
当時はメンバー各人の音楽的志向を妥協することなしに
バンドを継続することは不可能であった。
それゆえ、特定のアーティストのみをカバーするアマチュアバンドなど、
とても結成することは出来なかった。
ツェペリン、ディープ・パープル、ザ・フー、クラプトンもカバーした。
それは、本意ではなかったが、為にはなった。
イーグルス、ドゥービーズ、オールマン、ジョー・ウォルッシュなどは
楽しんでやれたし、技術面でも大いに糧となった。
同時に、その頃のニール・ヤングのカバーもした。
「ラスト・ダンス」、「遥かなりし罪人」、「L.A.」、「ウォーク・オン」・・・、
CSN&Yでは、「オハイオ」、「サザン・マン」、「木の舟」、「カット・マイ・ヘヤー」・・・。
クレイジー・ホースに対する憧れはどこか心の片隅にあった。
シンプルで、レイドバックしたダウン・トゥ・アースなサウンド、
”いつか、彼らのようなバンドをやりたい・・・”
そんな思いを確信したのは、「アイル・ゲット・バイ」(ダニー・ホィットン作)という
彼らのオリジナルをカバーしたときだったように思う。
80年代は、エネルギーのほぼ全てが仕事と家庭生活に費やされた。
若き日の夢など、遠い記憶のかなたに葬り去ったつもりでいた・・・。
また再び、音楽をやりだしたのは、80年代も終わりに差し掛かった頃、
音楽機器の進歩によって自宅での多重録音が、
比較的容易に出来るようになったからだった。
4トラのMTR、4チャンネルミキサー、リズムマシーン、
マルチイフェクター、マイク・・・、
70年代には、高価で手が出なかったものが、
ポケットマネーでも手が届くようになっていた。
しばらくは、自分自身のやりたい曲を全て一人で録音して楽しんでいた。
さながら、自分の思い通りのバンドを結成したかのように・・・
しかし、やがてそれも本当に求めていたものではなかったことに気が付く。
どれほど時間をかけ、綿密に演奏を録音してみたところで、
出来上がったものには、決して作り出せない何かが欠けていた。
・・・それは、人と人との集合による緊張感が生み出すもの・・・
多重録音に対する失望と同時に、
あらためてバンド結成に対する思いが芽吹き始めていた。
モヤモヤとした思いのうちに迎えた90年代。
バンド結成の機会は92年にもあった。
しかし、決断しかねているうちに話は消え去った。
そして、95年、あの阪神大震災。
多くの物や人が瞬時に命終えてしまった。
「また今度・・・」、「いつかそのうちに・・・」、などと言う言葉が、虚しく感じられた。
出来る機会に恵まれたら、今度こそはやる・・・。
新世紀を迎えた2001年、
その機会はついにやってきた。
ほぼ10年ぶりに開催された軽音のOB会で、
いつものように即興のメンバーで「ダウン・バイ・ザ・リバー」を演奏した。
・・・感覚が蘇った・・・
そして、バンド結成に対する熱い思いが胸に込み上げてきた。
そのときドラムを叩いたMr.河村が
「バンドするときは僕がラルフをやる」と言ってくれた。
彼のこの申し入れには力づけられた。
卒業以来、ずっと演奏活動を続けキャリアを積んできた彼は
貫禄すら感じさせていた。
聞けば、以前のバンドでニール・ヤングのカバーをしたが、
その当時のメンバーがあの震災で亡くなったとのこと。
・・・何か特別な思いを感じた。
この頃には、今度のバンドはどんなバンドにしたいか、
はっきりとした思い入れが固まって来ていた。
(ニール・ヤング&クレイジー・ホースのコピーをしたい・・・)
若い頃は、コピーバンドという響きの中に
何がしかの後ろめたさのようなものを感じていた。
それは、コピーという「物真似」とか「猿真似」と呼ばれるような
没個性的、あるいは被主体的な行為に対する負い目のようなものであった。
そんな思いからか、カバーをしつつも、
あえて自分なりのスタイルみたいなものにアレンジして演奏したりしていた。
数年前の正月に、友人たちと大阪は梅田近くの、ライブ・ハウスに入った。
そこは、ビートルズ・バンドのみのライブをするところだった。
当日は、クラブ・バンドが出張中で、代わりのバンドであったが、
その彼らの演奏を聴いて、驚きと感動を覚えた。
彼らの演奏は、完璧であり、メンバーそれぞれが忠実にビートルズの
メンバーを演じている(もちろん演奏の中での話しだが・・・)。
堂々と演奏をする彼らの表情の中には、
コピー・バンドということに対する負い目など微塵も感じることは出来なかった。
代役の彼らをしてこうだから、メインのクラブ・バンドはさらにそれ以上だろう。
世の中には、色んな音楽があり、色んな演奏がある。
優れたコピー演奏があると同時に、そうではないオリジナル演奏もある。
何より、この年になったら、もう好きな曲を好きなスタイルで思いっきり演奏してみたい・・・
というのが、偽らざる本音である。
OB会の数日後、旧知のベテラン・ギタリストのMr.YOKOに
バンド結成についての相談を持ちかけた。
同氏とは20数年前から「いつか一緒にやろう」と言っていた間柄であった。
飄々とした風貌が、一見仙人のようでもある氏は、
このわがまま勝手な申し入れを聞き入れてくれ、
さらに、信頼の置けるベーシストとしてこれまた旧知の仲で、
いかにもベーシストといった温厚で柔和な表情のMr.ヤントを誘い入れてくれた。
2001年の7月、
京都の高雄にある”City Light”で
初めてのセッションが持たれ
雷鳴のごとき嘶きとともに、
ここに、”Sleazy Horse”が誕生したのである。
ついに夢は結実した・・・。
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追記・・・2002年、デビューとなった「拾得ライブ」のあと、ドラマーのMr.河村は一身上の都合で
バンドを去ることになる。オリジナル・メンバーでなにより"
Sleazy "結成については大きな支えとなっていただけに
彼の脱退は大きな痛手であったが、幸運にもその年の8月まさに"Sleazy"
にとっては適任と思われる
ドラマーのC−まなかを迎え新生"Sleazy
Horse"の誕生となった。
(’03.8.29)
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